2010/09/02

twitterやらラジオやら、僕は重要だと思う人の発言はできるだけキャッチするようにしている。その中にはライターも多い。ライターとはその名の通り、雑誌や週刊誌(これも雑誌かなw)なんかに記事を書く人達だ。その人達の間でもうかなり前から議論になってた話題の一つが「電子書籍」である。近年amazonのKindleやappleのiPadが出回ってから、その話題は熱くなるばかりだ。
先日僕の先生でもある大阪梅香堂のオーナーがブログでチラッとその話題に触れていたので、僕も思うことをちょこっと書いてみようと思う。

まず僕は大して読書家ではない。大学以降積極的に読むようにはなり、カバンの中には常に本が一二冊入ってはいるが、本当の読書家がどれほどの本を読んでいるかを知ってしまった今では自分が読書家だとは恐れ多くて言えないので、言うなら「本が好きだ」くらいに留めておきたい。
大学以降積極的に読むように・・・と書いたが、僕は大学以前は本をほとんど全く読まなかった。読む習慣がなかったのだ。家族にも友達にも本を読む人はいなかったし、マジメくさって本を読むことはかっこ悪いことだとすら思っていた。腰パン、コギャル、ルーズソックスの僕らの時代はそういう雰囲気だった。(仙台においては。もしくは宮城広瀬高校においては。もしくは僕のクラスにおいてはそういう雰囲気だった。。。)大学で美術という文化系のお庭に入ってからやっと、正確には大学院に入ってからやっと、本を読まなきゃ戦えないし、ましてやそれが面白いということに気づいたのだ。読み慣れてないこともあって読むスピードはめちゃめちゃ遅いが、本棚が一ついっぱいになった。
大人になってからノラリクラリ読み始めた僕は、どこかで「遅すぎた」と感じている。先日ブックオフで梅図かずおの「おろち」と「へび女」を買った。梅図かずおという人も、多くの作家が子どもの頃読んだ「へび女」に影響を受けたと言っているように、文化の大事なポイントであったと思う。僕はこの「へび女」を29歳で読んだのだ。
同じような状況が恩田陸の小説「夜のピクニック」に出てくる。話しのメインとなる融(トオル)に親友の忍がお説教をする。小学校の先生になった従兄弟が忍にちょくちょく本を送ってくれてたのに、忍はぜんぜん読まなかった。高校3年になって退屈しのぎにいつか送ってもらった「ナルニア国ものがたり」を読んで「しまった!タイミング外した。何でこれを小学校の時に読んでおかなかったんだ」と後悔したと告げるシーンだ。よい物語には出会うにふさわしい時期があるのだ。それ相応の時期に出会っていれば、その後の自分を形作る大事な何かになるのだ。ここでは本ではなく物語と書いたが、批評や○○論であればそれ相応の時代に出会っていれば、というようになるのかもしれない。普遍性がなくなった今ではもしかすると時代と時期、地域などより細かいマッチングが必要なのかもしれない。とにかく、ことさらタイミングは大事なんだということだ。
また別の話しでは、たしかライターの速水健朗さんだったと思うが、ラジオで子どものころ父親の書斎からコッソリ本を借りて読んでいたと言っていた。ブルデューっていう偉い人が言うには、人の資本には経済資本に対して文化資本というのがあるそうだ。僕が恨みを込めて横目で見る言葉でもあるが、つまりは子どものころから家にいろんな本があったかどうかがその後の文化的成長に大きく影響する(ということだと思う。たぶん。)のだ。無理矢理読まされることがいいとは言わないが、例えばヒマでヒマで仕方がない時に、手の届くところに本があるかどうかがなかなか重要なんじゃないだろうか。思い返すと、僕が小さい時うちの本棚には鉛筆立てや町内会の書類ばかりで、本は「家なき子」と「日本昔ばなし」しかなかった気がする。僕はきっと家なき子のメンタリティーを持って今に至るのね。。

これが電子書籍だったらどうだろうか。小学校の先生をしてる従兄弟から「ナルニア国ものがたり」のデータをiPadに送ってもらうのだろうか。「ナルニア」のすぐそばのアイコンをクリックすればyou tubeでアニメがいっぱい見れるのに、「ナルニア」を読むのだろうか。はたまた父親の書斎に忍び込んで、書籍データと一緒に会社のデータがいっぱいつまったiPadを盗むのだろうか。そこまですればその子は間違いなく何らかの大物になるだろう。

僕は本を本棚に並べるのが好きだ。僕にとって遅すぎた本であっても大事にとっておく。難しすぎて半分もわからなかった本もとっておく。もしもいつか何らかの何かがあって僕の家に子どもがいるようなことがあれば、いつ何時でもその子の手の届くところに本は置いておきたい。

  

  

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